「児童は習っていない漢字を使ってはいけない」問題
この問題、特に小学校で見られますよね。批判というよりも疑問なのですが、教師はどういう意図があってこのようなルールを課すのでしょうか?
小学校のボランティアの経験からすると、教える側にとってもこのルールはかなり厄介です。このルールは児童だけでなく教師にも適用されます。習っていない漢字を使うと、「いけないんだー」とまるで悪いことをしたかのように教室中の児童から強く批判されるんです。(まぁ「習っていない漢字を使ってはいけない」と言い聞かせているから、実際児童の中ではそれは悪いことという認識なのですが...)
また、その批判によって教室はかなり混乱します。ある児童は習ったといって反論したり、他の児童は習っていなくても知ってるでしょと言ったりして、進行に支障が出ます。習った漢字を使わずに平仮名で書いた場合も同様です。
この混乱に対処するために、黒板に書く文字、プリントに記載する文字、教室内で見る文字の全てを「この漢字は習ったか否か」のフィルターにかけて使い分けなければなりません。かなり面倒です。
特に音楽教師のように複数の学年をまたがる場合には、各学年でこのフィルターを使い分けるために、各学年で習う漢字を把握しなければいけないことになります。それは流石に面倒すぎるので、逐一「この漢字使った?」などと確認しているのでしょうが、それでも面倒です。
自立とは
単位を落とす学生は「学力がない」「根気がない」ではなく、友達・先輩・教員に「助けを求めることができない」のではないかという話 - Togetter
自分もこのような感覚があります。
不真面目だが学生も単位を落としますが、卒業や進級に関わるようなものは落とさない。人間関係を使って最後の一線は超えない傾向があるように思います。
まだ大した年齢ではありませんが、歳をとればとるほど処理すべき問題は増え、その一方頼まなくても勝手に助けてくれるような人が減っていくように感じます。大人になるってそういうことですよね。
あるときを境に問題の量が自分のキャパを超え、人に頼らないといけなくなります。
先日、学校にてある子がちょっとした失敗をしました。そこに他の子がその失敗をカバーしようと手を差し伸べたところ、「一人でやらせるから」と先生の声が。
学校には一人でできることを良しとしますが、そんなことを求められる場面は少ないのではないでしょうか。
一人でこなすことより、必要に応じて他人に頼ること、また頼った人に感謝や謝罪を言ったり、お返しをしたりするなどして良好な人間関係を構築、維持することのほうが重要なように思います。
コロナ禍のオンライン授業
Twitterで北海道の小中学生へオンライン授業を、とのクラウドファンディングを見つけました。
このような動きがあるのは当然のことと思います。
特に大規模クラスターの発生している旭川市、寒すぎてまともに換気のできないではなおさらのことでしょう。
いじめ、飲酒や喫煙の調査
生徒のいじめ、校内での飲酒や喫煙などが疑われるとき、学校は事実確認を求められるようです。
はたして捜査能力のない学校が適切に事実を確認することはできるのでしょうか。
学校には指紋などを調べる技術はありません。事情聴取はできるかもしれませんが、経験のない素人です。
捜査能力がないのに捜査もどきをしてしまうこと。
それが事実誤認によるいじめの重大化、過激な事情聴取による指導死につながるのではないでしょうか。
労働の対価としての"感動"
自分が小中学生のとき、卒業式や合唱祭などで
教科担任の先生から「担任の先生を泣かせてあげな」とか
本人から「俺を感動させてくれ」とか言われたのを覚えています。
この発言には当時から違和感を感じています。
「保護者や家族を感動させよう」なら理解できますが...
多くの人はお金を対価に労働をします。
しかし、残業代のでない公立学校の先生は、定時以外にはお金を対価に労働することはできません。そこで、その代わりに感動を対価に労働しているのだと思います。
この前も「ずっと大変だけど卒業式で感動するとやってて良かったと思う」といったことを聞きました。
子どもの成長は多くの人が感動するものですし、その感情が悪いとは全く思いません。
しかし、このように感動を報酬とすることには子どもたちにも良くない影響があると思います。
たとえば、危険性が叫ばれている中で組体操のピラミッドを強行するのも感動を求めているからではないでしょうか。
ピラミッドで体力や筋力が向上するとは思いませんし、たいてい頂点の子に注目が集中して下段の子は気にかけられません。団体競技としての教育効果はリレーなどで代替可能です。
しかし、感動は対価だと仮定すると...労働の対価として給与をもらわないわけにはいかないのと同様に、労働の対価として感動しないわけにはいかないのでしょう。
教員の労働環境の悪化は子どもたちの教育にも悪い影響を及ぼすとよく思います。
最後に...
(自分の通っていた)小学校や中学校では合唱祭や卒業式の練習に多くの時間を使っていました。つまり児童生徒にその間頑張ってくれないと困ります。しかし、合唱祭はまだしも卒業式については何を頑張ればよいのかよくわかりません。多くの子どもは卒業式の練習の必要性を感じないでしょう。そこで他人を感動させるという課題を与えることで卒業式や合唱祭の練習を成り立たせていたということも考えられます。この意味では「感動させろ」と求めるのには必要性があったのだろうとも思います。
一斉指導の限界②
続きものですので、前の記事も御覧ください。
小学生の漢字練習のミスから学んだことを一斉指導と絡めて書きます。
①子どものミスがあまりにも多様すぎる
典型的なミスはあるものの、例外的なミスも多いです。
また、1人が複数のミスをします。練習を続けると漢字が変わっていくのです。
十人十色以上のミスのパターンがあります。
おそらく教員がすべてのミスのパターンを予想しすることは不可能だと思います。
仮に予想できたとしても、すべてのミスのパターンを教えるのは時間の関係で無理です。
だから一斉指導で1人の教員がすべての子の間違いを予防することはできないと思います。
②例外的なミスをする子が複数人いる
仮に例外的なミスをする子が1人であれば、その子を最前の席に座らして一斉指導の合間にフォローすることもできるかと思います。
しかし、そうではありません。
また、普段はよくできる子も例外的なミスをすることもあります。
よって教員は全ての子に目を掛けなければなりません。(当たり前のことですが)
このような一斉指導の限界を超えるためには、子ども同士で教え合うことが現実的な策になるのではないかと考えました。
教員の数を大幅に増やすことは不可能でしょう。文科省が少人数学級を推進していますが、実現するのか、そうだとしても何年先になるのかわかりません。AIを用いて子どものミスを判定することもできるでしょうが、配布されたタブレットの性能が低いなんてこともあるようです。
今の学校に豊富に存在するのは子どもくらいでしょうか。少子化が進んではいるものの、教員の数やタブレットの数などに比べれば多いです。
一斉指導の限界①
初めての投稿になります。
よろしくお願いいたします。
さて、バイトやボランティアで子どもに勉強を教える中で一斉指導の限界をひしひしと感じています。
ある時小学生が漢字の練習をしていました。小学生に教える経験が浅いもので(漢字の練習かぁ...そんな教えることないし暇になるな)と考えてしまいました。漢字のテストではなく漢字ドリルを使った練習です。大きく書かれて見やすいお手本も筆順も載っています。それをそのまま写せば終わりです。あえて言えば、筆順や「未」と「末」のような線の長さのことくらいでしょうか。このように漢字について教えることなんてほぼないと思っていたのです。
しかし、その予想は外れました。細かい間違いの他に、右にあるものを左に書くとか、全く別のものになっているようなミスも多くありました。そしてそのようなミスをする子がクラスに複数人いるのです。