労働の対価としての"感動"
自分が小中学生のとき、卒業式や合唱祭などで
教科担任の先生から「担任の先生を泣かせてあげな」とか
本人から「俺を感動させてくれ」とか言われたのを覚えています。
この発言には当時から違和感を感じています。
「保護者や家族を感動させよう」なら理解できますが...
多くの人はお金を対価に労働をします。
しかし、残業代のでない公立学校の先生は、定時以外にはお金を対価に労働することはできません。そこで、その代わりに感動を対価に労働しているのだと思います。
この前も「ずっと大変だけど卒業式で感動するとやってて良かったと思う」といったことを聞きました。
子どもの成長は多くの人が感動するものですし、その感情が悪いとは全く思いません。
しかし、このように感動を報酬とすることには子どもたちにも良くない影響があると思います。
たとえば、危険性が叫ばれている中で組体操のピラミッドを強行するのも感動を求めているからではないでしょうか。
ピラミッドで体力や筋力が向上するとは思いませんし、たいてい頂点の子に注目が集中して下段の子は気にかけられません。団体競技としての教育効果はリレーなどで代替可能です。
しかし、感動は対価だと仮定すると...労働の対価として給与をもらわないわけにはいかないのと同様に、労働の対価として感動しないわけにはいかないのでしょう。
教員の労働環境の悪化は子どもたちの教育にも悪い影響を及ぼすとよく思います。
最後に...
(自分の通っていた)小学校や中学校では合唱祭や卒業式の練習に多くの時間を使っていました。つまり児童生徒にその間頑張ってくれないと困ります。しかし、合唱祭はまだしも卒業式については何を頑張ればよいのかよくわかりません。多くの子どもは卒業式の練習の必要性を感じないでしょう。そこで他人を感動させるという課題を与えることで卒業式や合唱祭の練習を成り立たせていたということも考えられます。この意味では「感動させろ」と求めるのには必要性があったのだろうとも思います。